6月、ビューティフルに生きて死ぬための

 道を歩いている時に、前を歩いている男性がペットボトルをポイ捨てしたのを見た。花屋でたくさんの花が売られているのを見て、家にある花瓶にはどの花が合うだろうかと思いを巡らせた。けれどこれらの出来事が、いつどこで起こったことだったのかを思い出すことはできない。記憶が抜け落ちている。気づけばもう、6月。

 

 病んだり病んでいるフリなんかしたくない。私はいついかなる時も、前向きで健やかでありたい。でも、涙が止まらなくなって人の話を聞く気力がなくなってしまうことがどうしてもある。そういう時は紅茶を淹れて横になろう。これが、あなたが少しでも元気を取り戻す方法だから。今日はずっと布団にくるまってごろごろしていたけど。

 私と私の人生の折り合いがつけられない。今朝ツイッターで見た「自己肯定感は低いけど自己愛に溢れている頑張れない人」だ。私は。(でも思う。ツイッターでそういうことをさも自分はこの世の全てを知っている、悟っているみたいな顔をして呟く人って、一体何様のつもりなのだろうか。ベーッ。)

 いつもいつも適当だ。私は常に現状を楽しんでいる、現状に満足している、と思いながら過ごしてきたところがあるけれど、本当は過去に対する後悔を認めたくなかっただけなのかもしれない。

 中学から大学までずっと演劇をやってきたので、傍から見た私は、きっと演劇を頑張ってきた人なのだろうけど、全然そんなことない。本物を目の前にして自分は本物にはなれないと思った。頑張っても頑張っても、なれない。「若い女の子として消費されそう」そうなのかもしれない。舞台の上での私の価値ってそんなものなのかも。ならばもういっそのこと手放してしまおう。

 

 かつて私のことが好きだったらしい後輩に、気になる人ができたらしい。学生のうちに良い恋愛の一つぐらいしておくといい。良い恋愛が何なのかはよく分からないけど。愛が何なのか以前に、好きが何なのか分からなくなってしまった。

 

 今日のハイライトは「楽園の夜」のラストシーン。

全体的に抑えが効いているなと思っていたら最後に一気にそれが破り捨てられ、とても良かった。ハッピーエンドではないけど爽快。そういう最後も、悪くない。

 

 毎日なんてことない顔をして過ごしているけど、心の奥底から今の生活を楽しめているわけではない。常に頭を抱えている。胸のあたりが重い。

ビューティフルに生きて死ぬための僕らの人生?いいだろう。今にきっとそう思えるようになる。

 

youtu.be

 

2021 5/24~31

5/24(月)

万年筆で文字を書くのは恐ろしく難しい。バランスが分からない。カッコつけたくて買ったはいいけど、うまく使えるようになる気がしない。でもそれはあまりにも悔しいので、絶対に手懐けてやる。毎日使ってみるべし。

とりあえず今日買ったもののメモを。

 

〇買ったもの

・お香(hibi 3番。バニラ系の香りらしい。)

・万年筆(スロベニア製。)

・ミドリノートA5サイズ(またしてもノートを買ってしまった。万年筆で書くものが欲しかった。やはりノートはミドリノートに限る。)

 

最近ネットでポチってばかりいたが、外で買い物をしたらなんだかとても満たされた気持ちになった。精神衛生上、たまには外で買い物をすることも大事。

ヴィンチェンツォを全話観た。あとは免許を取った。これでようやく車に乗れる。

韓ドラの怖いところは、絶対に主演に惚れてしまうところ。私を待つのはソン・ジュンギ沼か。

ノートにペンで文字を書くことで安らぎを得られるかと思っていたが、スマホフリック入力をした方がはるかに多くの言葉が出てくるし、思っていることをほぼそのままの形で文章にすることができる。あまりにも文字を書くということから遠ざかってしまった。なにもノートに書く必要もないけど、せっかく万年筆とノートを買ったんだし、とりあえず書いてみよう。これは私を受け入れるということでもある。(汚い文字、整っていない文章。)

 

5/25(火)

初運転。乗って秒で右サイドミラーを大破させてしまった。車庫のブロックの一部も。慣れない車に乗るのがこんなにも大変だとは。車には申し訳ないことをしてしまった。以後気を付ける。しかし、以後車に乗るのが怖くなってしまった。かなり参っている。

おととい全話観終わったヴィンチェンツォの話でもしよう。

バイオレンス/ノワールものだが、たくさんのコメディ要素が散りばめられているし、展開も、ヴィンチェンツォが無敵で一人勝ちしすぎているため、全てがトントン拍子で上手く進んでしまうので、このドラマは「何でもアリ」を受け入れられる人に強くおすすめしたい。しかし、ここぞという見せ場の映像の写し方や音楽の入れ方が秀逸で、息をすることも忘れて見入ってしまうこと間違いなし。

個人的に好きなのは、EP1の冒頭とEP16のラストからEP17の冒頭。好きすぎて何度も繰り返し観ている。チャヨンとのシーンだと、EP8のラストが圧倒的に好き。“悪党”二人が見つめ合いニヤリととするシーンは、痛快なことこの上ない。

本当はもう少し感想を書き留めておきたいが、今日はもう眠いのでここまでとする。

 

5/30(日)

〇行きたい展覧会

フランシス・ベーコン(松濤美術館)

・艶めくアール・デコの色彩(庭園美術館)

・コレクター福富太郎の眼(東京ステーションギャラリー)

・アノイとアルヴァ二人のアアルト(世田谷美術館)

・空間の中のフォルム(神奈川県立近代美術館)

 

5/31(月)

急に思い立って、ジャック&ベティで「まともじゃないのは君も一緒」を観た。めちゃめちゃ面白かった。思いつきで立ち寄った映画館でまさかこんなに素敵な映画を観れるとは。良い一日である。

清原伽耶が生き生きとしていてとても良かった。(ちゃんと見てはいないけど、朝ドラの時よりはるかに生き生きしているように思えた。)成田凌の絶妙な気持ち悪さも。特に笑い方が最高に気持ち悪くて良かった。人間失格で見たときは、「この人の演技、なんか鼻につくなあ」と思って彼の演技があまり好きではなかったんだけど、おちょやんでちょっといいなと思い始めて、まともじゃないのは君も一緒で一気に引き込まれた。今度絶対に愛がなんだを観る。

自分が思う普通を大切に生きてゆけば良いのです。強さ、勇気のいることではあるけど、カスミと先生にならきっとそれができる。大丈夫。

しかし、「まともじゃないのは君も一緒」ってタイトルいいよな。まともじゃないのは君も一緒…。

今日は久々にひかると出かけた。大岡川をバックにひかるの写真を撮ったけどなかなかにいかしてる。それもまたちょっと嬉しい。

ジャック&ベティを出た後、横浜橋商店街に行った。キムチとか韓国の食料を売っている店が多くて面白かった。チャパゲッティも売っていたしね。ディープな横浜巡り。定期的に敢行したい。

雨に誘われ

 雨に誘われ、トリエステの坂道のページをめくる。じっくりと時間をかけて読んだ一冊は体の中に溶け込み、感性の一部となる。

雨が激しくなった。ペッピーノが自分の傘をトーニにさしかけると、彼は、いいよ、いいよ、というように頭をふって、手にもったカーネーションの束を台のうえに投げ出し、こちらがあっと思う間もなく、いちもくさんに近くの建物をめがけて走り出した。さよならともいわずに、両手で背広の衿もとをしっかりにぎって。夫といっしょに街を歩いたのも、トーニを見かけたのも、あれが最後だった。

須賀敦子「雨の中を走る男たち」『トリエステの坂道』新潮社

 一体この後トーニはどこへ行ってしまったのだろうか。トーニ自身や彼の家族のこと、そして須賀敦子と彼の夫のことはここに書かれていることしか知らないのに、なぜだか一抹の寂しさを覚える。

この話だけではない。トリエステの坂道に収められているどの話を読んでいても、常に寂しさを感じた。それはもしかしたら、彼女自身の寂しさだったのかもしれない。日本から遠く離れたイタリアに渡り、そこで伴侶となる人物と出会い家族になったが、伴侶やその家族と根っこの部分から分かり合えたわけではない。そこには育ってきた環境の違い、文化の違いといった大きな壁があった。

 むろん、彼女がトリエステの坂道の中でそのことを語っていたわけではない。ただ、彼女の一歩引いたところからイタリアでの出来事を綴った文章からは、そう思わずにはいられないのだ。

軸はどこにある

  サボテンのしまさんの住処である小さな植木鉢に土を足した。昨年の春にしまさんが台の上から転落し、そのはずみで土がばら撒かれしまさんの根っこの部分が露になってなってしまったのを、今の今まで放置してきてしまった。本当に申し訳ないことをしてしまった。何度も「ごめんね」と言いながら土を足し水をやった。本当は砂漠がもともとの住処であるサボテンに夜に水をやるのは良くないのだけれど。

 命あるものと生活を共にするのは難しい。

 小学生の頃に金魚を飼っていたのだが、それも最初は「私が世話をする!」と意気込んで餌をやったりしていたものの、最終的には面倒を見ることが億劫になってしまい、餌も毎日ではなく気が向いたときにだけやるようになっていった。当然、金魚は日に日に弱っていき、ある朝水槽の中で腹を上にしぷかぷかと浮いていた。金魚よ、永遠に私を呪うがいい。

 命あるものの範囲をもう少し広くしてみると、かなり強引な繋げ方になるが、そこには人も含まれる。人と関係を築いていくこともまた難しい。

 少しでも嫌なことがあると、相手と繋がっていたSNSを全てブロックするなど、関係性を白紙に戻したくなる癖がある。ネット上ではリセットできたとしても、起こってしまった事実そのものは取り消せるわけではないのに。

 中学生の頃からTwitterを利用してきたが、利用し始めた時から今まで、本当にたくさんアカウントを作っては消してきた。なので8年ほどTwitterを利用しているが、その間に繋がり関係が今も続いている人たちは本当にわずかである。

Twitterで繋がった相手との間に起こったちょっとしたことが嫌になり(今思えば本当にくだらないことだった)アカウントをどうにかしたこともあったが、私が勝手に繋がった人たちのことを僻み、いてもたっていられない状況に陥りアカウントを削除することが大半だった。

 「みんな人生すごく謳歌しているのに、どうして私の人生はこんなにも味気ないの?」くだらない。自分の人生を他人の人生と比較してどうする。と、過去の自分に堂々と胸を張って言える自分でありたかったが、結局今も昔とちっとも変っていない。Twitter大好きだけど、しばしばしんどくなることもまた事実。

 自分の人生とその中に存在する幸せは自分だけのもののはずなのに、いつだって他者の人生と自分の人生とを比較して苦しくなる。比較する必要などどこにもないのに、TwitterなりSNSをやっていると、無意識のうちに比較してしまっている。それはつまり、自分に対する自信のなさの表われでもあるのだけど。

 自分の人生、大手を振って歩んでいけるようになりたいものである。

ケーキを焼く

 雨が降っていて出かけるにも出かけられないので、ケーキを焼くことにした。

しかし気が付いたら時計は3時を回っており、雨もすっかりやんでいた。おやつの時間が過ぎてしまい、ケーキを焼くかどうか一瞬迷ったが、体は甘いものを求めていたので決行することにした。いつでも甘いものに対する欲望には忠実でいたい。

 チェット・ベイカーの“Chet Baker Sings”を流しながら、まずは黙々とケーキの型に合わせてオーブンシートを切ったり繋げたりする。型の底を鉛筆でぐるりと写し取ったオーブンシートと、側面の幅に合わせて切ったオーブンシートを皴にならないように注意しながら型にはめていく。チェット・ベイカーの甘い歌声が、甘いものに対する欲望をさらに掻き立てる。彼の歌声は、軽い口当たりの生クリームのようだ。

でも今日作るのは、生クリームをふんだんに使ったショートケーキではない。ビターチョコレートがたくさん入ったガトーショコラだ。

 ビターチョコレートとバターを一緒に湯せんで溶かす。あっという間に溶けていく。卵白を泡立てる。これでもかというほど泡立てる。しっかりと泡立てることが大切らしい。それから溶かしたチョコレートとメレンゲと、あとは泡立てた卵黄をサクッと混ぜる。メレンゲの泡をつぶさないように、チョコレートと生地がしっかり混ざるように。混ざったらあとは型に流し込んでオーブンで焼くだけだ。ここまでくればもう一安心。

 レシピ本を参考に時間をかけてお菓子を作るのは楽しい。この一年でお菓子作りの楽しさに目ざめた気がする。

 ふとこの一年のことを振り返ってみる。色々あったようで結局のところ何もなかったように思う。失ったもののことやこの先のことばかりを考えてしまうせいで、“今”に対する意識が鈍くなってしまう。そんなことの繰り返しだった。お菓子作りは、そんな自分の意識を今に繋ぎ止めるための行為なのかもしれない。

 しだいに部屋にケーキの焼けるいい香りが漂い始める。あと少しだ。この瞬間がたまらない。

 焼き上がったケーキを1時間ほど冷ましてから、粉砂糖を振りかけていく。雪みたいで綺麗。そういえば今年は雪らしい雪が降ることがないまま春を迎えようとしている。

 さあ、そうこうしているうちにガトーショコラが完成した。ナイフを入れると表面がほろっと崩れ、ぎっしりと詰まった中身があらわれる。これはもうおいしいに違いない。紅茶でも淹れて優雅にいただくとしよう。

落下する午後

 今日はずっと家にいたので、外の暖かさを知らずに一日を過ごしてしまった。とても暖かかったとは。そろそろ花粉が気になり始める頃である。

 家の中はいつも寒い。殊に自室はシベリアの地さながらだ。一昨年ぐらいまではピンピンしていたヒーターも、今ではピクリともしない。触るとひんやりとする、ただのオブジェとして部屋の隅に陣取っている。

自室はこんな感じなので、大抵いつもリビングにいる。リビングは良い。ちゃんとストーブが稼働しているし、カーペットもある。自室とは天と地の差だ。(新しいヒーターなり電気毛布なりを買えばいいだけの話なのだが。)

 リビングにはテレビがあるので、昼食を食べながら録画してあった番組を二本観た。ぶらぶら美術館(石岡瑛子展特集)と落下の王国。 ぶらぶら美術館を見ていたら石岡瑛子という人のことがとても気になってしまい、その流れで彼女が衣装をデザインした落下の王国を観た。

 落下の王国はきっとかなり前、70年代とか80年代に公開された映画なのだろうと勝手に思っていたのだが、なんと2006年に公開されたものらしい。割と最近ではないか。なんでそんな昔の映画だと思っていたのだろう。

衣装目当てで観たけれど、最終的には物語そのものに引き込まれていた。現実と作り出した物語のあわいをさまよう感じが好きだった。あと、とにかく色が鮮明で、嫌な夢を見ているようでもあった。

 面白い映画を観たら何もしたくなくなってしまったので、その後はずっとごろごろしていた。良いものを観ると上の空になる。やらなけらばいけないことは山積みだが、まあどうにかなるだろう…。ああそうだ、冒頭のシーンで使われていた劇伴も良かったな。サントラは出ていないみたいだが。

夏の手

 祖母は私の隣で、皴のある手で器用にカッターナイフを使い鉛筆を削っていた。

 

 祖母の家は高知にある。周りを山と田んぼで囲まれたそこは、とにかく緑が目に眩しい。幼い頃は毎年夏休みに祖母の家を訪ねていた。長いこと電車に揺られ疲れ切った私と妹と母を、祖母はいつも「よく来てくれたねえ~。暑いでしょう?今冷たいお茶淹れるから。」と言って出迎えてくれた。そして私たちは、お土産として持ってきた焼き菓子と祖母が淹れてくれたアイスティーでくつろぎながら、会えなかった一年にあった様々な出来事について話すのだった。

 祖母との思い出で、今でも忘れられない出来事がある。

祖母の家には毎年一週間ほどいた。これはその三日目頃のお昼の出来事だったろうか。祖母がリビングで、ノートに先がごつごつと尖った鉛筆で何かを書いていたのだ。その姿があまりに真剣だったので、気になった私はそーっと祖母の側に行き「おばあちゃん、何書いてるの?」と聞いた。すると祖母は「俳句を詠んでいるんだよ」と教えてくれた。

「俳句?ご・しち・ごのやつ?」「そう。五・七・五のやつよ。あゆみちゃんも詠んでみる?」

俳句が何たるかよく分かっていなかったが、何だか面白そうだと思い「私もやる!」と言ってさっそく詠んでみることにした。けれど、何をどうしたらよいのか分からない。筆が進まない。そんな私を見て祖母はふふふ、と楽しそうに笑いながらこう言った。

「最近楽しいと思ったことは何?」「楽しい…うーん、あ!あのね、さっき庭でカエルを見つけた!」「あらそうなの。庭のどこで見つけたの?」「葉っぱ、葉っぱの上でねゆっくりしてたよ。…あ!」その瞬間、頭にパッと一つの句が浮かんだ。

 

「かえるさん 葉っぱの上で 一休み」

 

すごく良いものができた、と思って祖母の顔を見た。祖母も嬉しそうな顔をしていた。

「とっても良い句。なかなかやるじゃない。」

その一言がまたすごく嬉しくて、その日はそれからずっと祖母に季語や字余り時足らずなど、俳句のいろはを教えてもらいながらたくさんの俳句を詠んだ。そんな私の隣で祖母は、私が使って短くなった鉛筆の芯をカッターナイフで削っていた。するすると、器用に。

一緒に俳句を詠んだこともそうなのだが、それ以上になぜだかこの光景が忘れられない。

 

  それから何年も時が流れ、私は今年、久々に祖母の家を訪ねた。(受験などでしばらく訪ねることができなかった。)

相変わらず祖母は真剣な顔で俳句を詠んでいた。しかし、手にしていたのは先がごつごつと尖った鉛筆ではなく、先がつるつると尖った鉛筆だった。

「おばあちゃん、今はもうカッターで鉛筆、削らないんだ。」

「そうねえ、最近目が見えづらくてね。カッターだと危ないから鉛筆削りを買ったのよ。」