坩堝における洗礼について

 劇場内にたま~に変な人がいるところに、ジャック&ベティや横浜シネマリンなど、いわゆるミニシアターと呼ばれる映画館の面白さがある気がする。

 変な人には昨日初めて遭遇したのだけど、私が初めて遭遇した変な人は、眼鏡をかけて紺色のポロシャツを着た、いたって普通な感じの中年男性だった。しかしその人は初っ端から飛ばしていた。

 上映開始間恐らく10分と経っていない頃、壮大な音楽と共に画面に映し出されたキャストやスタッフなどのクレジットを見て、その人は突然大きな声で「ハハハ!」と笑い出したのだ。(待て。そこは笑うところなのか?)訳が分からない。壮大な物語の幕開けだというのに、一気に現実に引き戻される。けれどそんなのは序の口でしかなかった。その後もその人は何度も何度も「ハハハ!」と大きな声で笑うではないか。しかも全然笑いどころじゃないだろ!というところで。こういう人のことを落語の世界ではヘンキンと呼ぶらしいのだけど、もうまさに絵に描いたようなヘンキン。こちらとしては映画に集中できなくて徐々にイライラが募っていく。ヘンキンの馬鹿笑い→なんとか集中しようと画面に食いつく→またしてもヘンキンの馬鹿笑い→思わずヘンキンを睨みつけてから再び画面に食いつくというように攻防を繰り返すことで、ヘンキンの笑い癖には耐性がついてきたけれど、恐ろしいことにヘンキンは笑い上戸なだけではなかった。

 物語中盤、追手から逃げるために全力疾走している男性の顔がアップになったシーンで、「えぇ…こわっ…w」という呟き(これまた声が大きい)が隣から聞こえてくるではないか。そう、ヘンキンは独り言魔でもあったのだ。「はあああ~?ここは!お前の!家じゃないの!w」ここまでくるとなんかもう笑うしかなかった。確かに迫力あってちょっと怖かったし。こんなに周りの目を気にせずに映画を楽しめるなんて、迷惑ではあるけど、ヘンキンは正真正銘のフリー・ガイだ。

 一日経って思い返せば、ヘンキンがあんなによく分からないタイミングで笑っていたのは、もしかしたら彼が作品内で使われていた言葉、チェコ語を理解していたからなのかもしれない。だから字幕では拾いきれない細かいニュアンスに思わず笑ってしまったとか。だとしたらすごいけど。

 それか、ミニシアターは普段自分を抑圧しているヘンキンにとって唯一の解放区なのかもしれない。自分と同じように映画が好きでどうしようもない人たちが集まっているようなミニシアターでなら、どんな映画の楽しみ方をしてもそこまで白い目で見られることはないだろうという安心感から、思わず好奇心旺盛でワクワクしっぱなしなヘンキンの少年の部分が出てしまったとか。もちろんヘンキンが普段どんな生活をしているかなんて私の知る所ではないけれど。

 立派な洗礼を受けてしまったことだし、ますますミニシアターに通うのをやめられなくなりそう。映画好きの坩堝で、次はどんな人に出会えることやら。絡まれるのは御免だけど。

 

つれづれなるままに9

 話に引き込まれないと、せっかくの役者の熱演もただただ目障り耳障りなものになってしまうのだなというのを、先輩たちが結成したユニットの公演を観て思った。本当は身内に対してあまり厳しいことは言いたくないのだけど、面白いと思えるポイントが一つもなかったため、お世辞で面白かったと言うのも逆に心苦しく、アンケートに少し厳しめな感想を書いてしまった。本当につまらない作品というのは、記憶の隅にも残らないものである。面白くなかった!と思っても、観た後にブツブツ文句を言いたくなったりするようなものは、自分の中で引っかかるポイントがあったということであり、実は結構面白かったということなのだろう。話が少しそれてしまったけど、今日観た芝居は前者だった。

 そもそもよく知っている人が舞台上でたとえその人の普段のキャラクターとはかけ離れた役を演じていたとしても、こちらとしてはやはり普段のイメージが深く刻み込まれてしまっているため、どうしても役として見ることができないのだ。まずそれが、話に入り込めなかった第一にして一番の原因だ。

 第二に話の全体像が掴みにくかった。登場人物たちが抱えるそれぞれの葛藤が上手く描ききれていなかったような感じがしたし、それぞれの葛藤が交わっていくわけでもなかったので、全体として取っ散らかった印象を受けた。テーマは分かりやすくまあまあ共感できるものだったけれど、ストーリーの説得力が薄かったため、結果としてテーマもぼやけてしまっているように感じた。

 第三の原因は役者の演技だろう。最初に書いた通り、話に入り込めなかったから役者の演技にも魅力を感じなかったというのはあるが、泣いたり叫んだりの演技があまりにも多すぎた。メリハリがない、とでも言えようか。私が感情を爆発させるような演技があまり好きではないというだけで、これはもう好みの問題なのかもしれない。しかしにしても、泣いたり叫んだりの裏にある葛藤がイマイチ見えてこなかった。話に入り込めていたら見えたのだろうか。

 小劇場での公演で3,000円は安い方だと思うが、身内だから出せた3,000円であり、身内でなかったら出す価値があるかどうか考えてしまう3,000円だろう。先輩方が今後どのようなスタンスでやっていくか知らないけれど、もしこれから身内だけでなく演劇が好きな多くの人たちにも観て欲しいとお考えならば、今回のような公演は、先に挙げた原因その1を抜いたとしてもなかなかにキツいものがあるのではないかと思う。

 ずいぶん偉そうなことを書いてしまったけど、身内でもあの内容で3,000円が飛んで行ってしまったのは少々痛い。なので、なぜつまらないと感じたのかを書かずにはいられなかった。この文章を書いていて思ったのだが、今回の公演の評価を少し上げることができるとすれば、それは実は今回の公演が記憶の隅にも残らないつまらないものではなく、自分の中で引っかかるものがあるつまらないものであったということだろう。次回は(やるとするのならば)面白い作品を観ることができたらいいなと思っている。

今回の出来事から学んだこと

 多分もう、カヌレと会うことはないかもしれない。

会える望みは少ないけれど、断言してしまったら本当に二度と会えなくなってしまいそうなので、あくまでも可能性の話にしておく。

 大学院に進学したカヌレは、とても忙しい日々を送っている、らしい。忙しくてしょうがないことは分かっていたけれど、会いたい気持で胸が塞がる。苦しくて仕方がなかった。最後に会った時、もしかしたら私たちは両想いなのかもしれないと感じた。だから次に会ったら、気持ちを確かめてみたいとずっと思っていたし、ちゃんと「あなたのことが好きだ」と伝えようと思っていたから。往生際の悪い幼稚な私は、なんでもかんでも白黒はっきりさせようとしたがる。それが結果として災いを招いたのだろう。

 「会いたい」に対するカヌレの反応は、「時間がなくて忙しい。気持ちに余裕がなくて多分楽しめないと思う。やることをやらないと遊べない性格なので許してほしい。落ち着いたら誘う」というものだった。理路整然としているところは相変わらずだし、やはり好きだなあと思ったけれど、同時にこの先ずっと、落ち着く瞬間が来ることはないのではないか、とも思う。第一にググってみた限り、どうやら理系の院生は論文を書いたり学会で発表したりと、本当に忙しくてしょうがないらしい。文系でのらりくらりと四年間をやり過ごしてしまった身からは想像もつかないほどに。また彼の性格を考えると、文面以上でも以下でもないような気がするが、「落ち着いたら誘う」は「忙しくてそれどころではないのでもう構わないで欲しい」と取ることもできるのではないか。もし仮にそうなのであれば正直に、「忙しくてそれどころではないので多分もう会えないと思う。ごめん」と言ってくれればいいものを。もちろんそれはそれで悲しくて立ち直れそうにないが、はっきりしないとこちらも、(往生際が悪いせいで)希望を抱いていつまでもうだうだと待ってしまいそうで辛いのだ。

 カヌレという(みたいなタイプの)人間と付き合っていくには、

1.何か月も相手を放置できる忍耐強さ(LINEしない遊びに誘わない)

2.何があっても泣き言を言わないポジティブさ(遊べないと言われても落ち込まずに次に進むマインド)

3.自分からぐいぐい行くそれなりのマイペースさ(1と言っていることが逆になるが、あちらから滅多に誘ってくることはないので、こちらの存在を忘れさせないためにもある程度の押しの強さは重要)

の三つが必要不可欠だ。1に関しては人間的な成熟が求められる。相手のことを考えずに気持ちを押し付けないこと。だがしかし、なんだか微妙な関係で半年近くも会うことをお預けにされていたら、会いたい気持ちも爆発するものだ。そんなにいい子にはなれない。考えてもみて欲しい。良い感じになった人と半年近く会わない+LINEでやり取りもしない、こんな状況に耐えられるだろうか。普通は無理だろう。というよりそもそも、本当にいい感じになってお互いに好きなのであれば、どんなに忙しくても時間は作れるものなのではないか。つまり今の状況は、「別にいい感じでもなんでもなく結局ただの友達同士」なのではないか、と言われてしまったらそれまでだが。そんな気はするけれど、思い込み激しめなロマンチストなので、その可能性については直視しないことにしよう。

 2の掟はずいぶん前に破った。「さすがに心が折れそう(笑)」と伝えたら、「お互い頑張ろう(絶妙にダサい顔文字)」と返ってきたので2週間ぐらい頑張れたけれど。この一言でご機嫌になれるとは、我ながらとてつもなく単純だなと思う。実にチョロい。

 そして今、もう二度と会えないかもしれないとひやひやしているのは、3のせいである。ここ半年近く一か月に一度ぐらいのペースで遊びに誘っており、そのたびに「忙しい。時間作るの厳しいかな」と言われていたのにも関わらず、懲りずに誘い続けたからだ。「万年忙しそうなのだから、結局いつ誘ったって変わらないじゃないか!」精神でいたのだが、結果としてそれが災いを招いたようだ。何を言われても懲りないあたり、ポジティブやマイペースさを通り越してもはや怖い。この文章を読んでいる方々も、きっと同じことを思っているだろう。

 以上の事からもう一つ大事なことが浮かび上がってくる。それは、「すっぱりと諦められる潔さ」だろう。これが何よりも大事なのはもう言うまでもない。世の中白黒はっきりさせられることばかりではない。大人になるにつれ、グレーゾーンは増えていくものなのだ。そのことを肝に銘じるべきだろう。

 以前Twitterで、「付き合っていないけど両想いみたいな時が一番楽しい」というツイートを見かけたが、そんなのは嘘だ。恋人同士ならば、会いたくなったら会いたいと言えるし、愛おしさから、「好き」とか「愛している」と伝えることができる。そういう権利がある。でも付き合っていなかったらそんな権利はない。会いたくて仕方がなくても会いたいと言えないし(言ったけど)、好きでどうしようもないことを伝える手立てもない。ましてやもっとこうして欲しい、例えば、どんなに忙しくても一か月に一度は会いたいというような、こちらの要求を伝えることなどできるはずがない。そのせいでないはずの望みを抱き、いつまでもケリをつけられずにうだうだとしてしまうことで、ただの"イタい人"になってしまう。なのでもし今付き合っていないけれどいい感じの相手がいるという方は、さっさと付き合ってこちらの要求を相手に伝える権利を手に入れてしまった方が良い。気苦労は増えるかもしれないが、それもきっと、曖昧な関係の中で生まれるものよりもポジティブなもの、二人の関係性をより良い方向へと持っていくためのポジティブな要素にすることができるものだろうから。

本/言葉2

「記憶というのは、思い出されるごとに独自のものになるんだ。絶対的じゃない。実際の出来事をもとにした話は、しばしば事実よりも創作と重なるところが大きい。創作も記憶も、思い出され、語りなおされる。どっちも話の一形態だ。話という手段を介して、人は知る。話という手段を介して、たがいを理解する。だけど現実は一度きりしか起こらない」

「それで、どんなふうに終わったの?」わたしは言う。「前の彼女とは」

「ろくにはじまってもいなかった」彼は言う。「たいした付き合いじゃなかったし、一時のことだった。」

「でも、そう思って付き合いはじめたわけじゃないでしょう?」

「付き合いはじめたときも、終わったときに劣らず真剣じゃなかった」

「なんで長つづきしなかったの?」

「本物じゃなかった」

「どうしてわかるの?」

「わかるものはわかる」彼は言う。

「でも、本物の付き合いに発展したときには、どうしたらわかる?」

「一般的な話?それとも具体的に当時のこと?」

「当時のこと」

「相手に依存するところがなかった。依存があるということは真剣だということだ」

 

イアン・リード (坂本あおい)『もう終わりにしよう。』早川書房 2020年

 

 大変不思議な章タイトルと思われたかもしれないが、ここでは良い訳とは何かということを考えてみたい。いうまでもなく、非の打ちどころのない理想的な訳というのは、まず原文が伝えようとすることがらを余すところなく正確に伝えているということが大切である。そのうえで翻訳ならば、もともと訳文で書かれたかのような自然な整ったものに仕上がっている。通訳ならば、もともと訳語で述べられたかのような自然な無理のない発言になっていて耳障りではない、それを私たちはいい訳というふうに判断している。

 さて、この原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは、原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は、美女、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には醜女というふうに分類すると、この組み合わせは四通りある。「貞淑な美女」、「不実な美女」、「貞淑な醜女」、「不実な醜女」の四通り。

(中略)

 しかし考えてみると、訳文が女の容貌や男に対する忠誠度にたとえられるのは、これはヨーロッパの伝統なのだが、少々癪である。中村保夫氏著作『翻訳の技術』(中公新書)によると、これはイタリア・ルネサンスの格言「翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である」に由来するし、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)によれば、十七世紀のフランスで訳文の美しさで人気の高かったペロー・ダブランクールの翻訳を大学者のメナージュが評して、「私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった」と述べたことに始まるらしい。この時以来Belles In-fideles(不実な美女)というフランス語は、「美しいが、原文に忠実でない翻訳」を指して用いられるようになったということだ。

 まあ、いずれにせよ、比喩とはいえ、容貌と貞淑度を問題にされるのが女ばかりであるのは癪である。これを男に置き換えられないものかと、「貞淑」」に該当する、男を修飾する形容詞を探したところ、見当たらない。せいぜい「誠実な二枚目」、「誠実な醜男」、「不実な二枚目」、「不実な醜男」というふうな、締まりのない四通りの置き換えで我慢するしかないのだろうか。

 この言い方のインパクトの弱さは、一般的に女が、男のように相手の容貌にも、自分に対する忠誠度にも、大した重きを置いていないせいではないだろうか。はるかに現実的で欲張りな女は、単に「二枚目」であるだけでは満足せず、背丈も収入も学歴も高いことを望む。それを考えると、「浮気の絶えない三高男」と「あなた一筋の三低男」なんてのが妥当な線かもしれない。で、もちろん、こうなると、比喩としては不適当になってしまうのだ。

 

米原万里『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』新潮文庫 1997年

つれづれなるままに8

美容院

 若い美容師さんに髪の毛を洗ってもらっている時に、「オゥパラディのキンモクセイの香り付けてます?」と聞かれてびっくりした。なぜなら今日はオゥパラディのオスマンスを付けていたから。見事に正解ではないか。その後少し美容師さんとオゥパラディの話で盛り上がった。美容院で美容師さんと話をするのは疲れるのであまり好きではないし、今日も少し疲れてしまったけど、なんだか楽しかった。美容師さんが好きな雑誌について楽しそうに話しているのを聞いているうちに、その雑誌がとても魅力的なものに思えてきたし、雑誌に掲載されていたぬいぐるみを二人で可愛いね~、可愛いけど高すぎるよね~とぶつぶつ言いながら眺めるのも面白かった。美容師さんの好きな雑誌は夏になると表紙がいつもに増してカッコよくなるらしい。絶対に用意すると言っていたので、楽しみにしていよう。

ユーミン

 臨港パークで海を眺めていたら、"ソーダ水の中を貨物船が通る”のワンフレーズが頭の中でぐるぐるし始めたので、帰りはユーミンを聞きながら歩くことにした。海を見ていた午後もたぶんあなたはむかえに来ないもDESTINYも、全てが沁みてしまう私は多分恋に負けてしまったのだろう。燃え広がった火を消せるのはただ一人だけなのに。何も言わずに立ち去る前に、どうかこの火を消していって欲しい。さもなければいよいよ本当に燃え尽きて灰になってしまう。しかし荒井由実時代のユーミンの曲ってすごくお洒落だし、歌詞のワンフレーズワンフレーズに頷かずにはいられない。歌詞については、たくさんのOLにインタビューをして書いていたと聞いて全てが腑に落ちた。どうりで分かる!という気持ちになるわけだ。DESTINYの、"どうしてなの 今日にかぎって 安いサンダルをはいてた"の部分はいつ聞いても100いいねぐらいしたくなる。ちなみに海を見ていた午後に出てくるドルフィンから貨物船は見えないらしい。行ってみたいけど。

ほろ酔い

 怒涛の4日間が終わった。始まる前は疲れすぎて途中で息絶えてしまうのではないかと思っていたけど、時間が過ぎるのは思っていたよりもずっとあっという間だった。

 ということで、今日は家に帰ったらパーっとやろうかなあと思い、ブリーとブルーチーズの3点セット、ノンアルの白ワイン(お酒はめっぽう弱いので)とチーズ&ブラックペッパー味のスコーンを買った。ふふふ、食べるのが楽しみ。ノンアルのワインは最近気になっていたので早く飲んでみたいところ。

 買い物ついでに職場の周辺をぐるりと回ってみた。ぐるりと回ってみたら弾みがついて、そのまま二駅分歩いてみた。そうだ、この感じ。最近ちょっと忘れていた感覚がじわじわと蘇ってきたのが嬉しい。目に映るもの全てが新鮮でわくわくして、どこまでも歩いていけそうな感じ。なんと気持ちの良いことか。

 自分が社会人をやっているなんてなんだかとても変な感じがするけれど、社会人も悪くないのかもしれない。今日みたいに美味しいものをたくさん買い込めるわけだし。あくまでも今のところ、だけど。

 

本/言葉

 性欲ではなく、執着なのである。リカに、自分を認めてほしい。リカが何かを見て美しいと思った時に、必ず自分のことを思い出し、自分とその美しいものをわかちあいたいと感じてほしい。リカが何かを伝えたいと思った時に、まず最初に自分に言いたいと思ってほしい。

 

 みのりと喧嘩するのは、楽しかった。なぜなら、仲直りをすることができるから。みのりと喧嘩しないのも、楽しかった。なぜなら仲直りをする必要がないから。みのりと一緒に歩くのは、楽しかった。なぜなら、みのりと同じものを見て喜ぶことができるから。みのりと一緒に歩かないのも、楽しかった。なぜなら、一人で見たものをみのりに教えてあげることができるから。

 

川上弘美『某』 幻冬舎文庫 2021年

 

 もし彼らが中年になっても、女学生のセーラー服に少しもワイセツ感をそそられないとすれば、これは重大問題である。そうなったら、文化財保護委員会みたいなものをつくって、とくにワイセツと認定されたものを、保存育成しなければならなくなるであろう。

 

 幼年期が私たちにとって、至福の黄金時代のように見えるのは、私たちが大人の目で、これを歪めて理想化しているからにほかならない、という意見もある。たしかフロイトも、そういう意見の持主だったようだ。

 しかしながら、あらゆる大人の世界の禁止から解放された、自由ななるしシックな子供の世界、時間のない、永遠の現在に固着している子供の遊びの世界は、やはり私たちの想像し得る、最も理想的な黄金時代と言ってよいのではあるまいか。

 アメリカの心理学者ノーマン・ブラウン氏の意見によると、人間の芸術活動のひそかな目的は、「失われた子供の肉体を少しずつ発見して行くこと」だそうだ。この意味ふかい言葉を、私たちは何度も噛みしめてみる必要があるだろう。そのとき、幼児体験の意味するものも、新鮮な光のもとに照らし出されて見えてくるだろう。

 

澁澤龍彦『少女コレクション』 中央公論社 2017年