ツーショットは撮らない

 恋人とのツーショットが苦手だ。以前一年半ほど付き合った人がいたけれど、その間に一緒に写真を撮ったのは、たったの二回だけだった。

その二回でさえ私から一緒に写真を撮ろうと声をかけたことはない。いつの間にか相手が構えたスマホに向かって笑顔を作る、そんな感じだった。

 その恋人の顔がとても好きだった私は、よく写真を撮った。でも、隣に並んで写真に写りたいとは思わなかった。

好きな人の好きだと思う顔の側に自分の顔があることがたまらなく嫌なのである。目に映るのは好きな人の姿だけでいい。

 ツーショットだけではない。付き合っていた人にスマホを向けられると、とっさに顔を隠したり逃げたりした。好きな人の視線に耐えられる自信がなかった。じっと見つめられるたび、しゅわしゅわと消えていまいそうな心地になった。一体今私はこの人の前でどんな顔をすればいいんだろう。スマホに向かって笑いかけたくても、その視線にどぎまぎしてしまう。

 それでもやはり好きな人に見つめられることほど幸せなことはない。けれどそれよりも私は、いつまでも好きな人を見つめていたい。見つめられることの幸せは、やがて嫌悪へと変わってしまうから。

 相手の眼差しから自分に対して向けられる愛おしさはやがて、相手を疎ましい存在に変えてしまう。ちょっとした行動や言葉、その全てから発せられる愛おしい好きという感情は、王子を蛙に変える。

「好き」は、ジトッとまとわりついて離れない。身動きを取れなくさせるとても気持ちの悪いものだ。

 私のことを好きだという人を私は好きになることができない。今まで付き合った人たちも、すべて私の一方的な好意に相手が巻き込まれて付き合うことになり、最終的には私が相手の好意を疎ましく感じるようになってしまい別れを告げた。

それは、私が自分の速度でしか動くことができないからなのだろう。相手の「好き」を受け入れるということは、相手の速度に合わせるということでもある。それが私にはできない。

 自分自身のことが少しでも落ち着いたら、人からの好意を受け入れることができるようになるだろうか。もっとも今は、自分自身のことを落ち着かせるために踏ん張らなくてはならない状況にあるわけだが。

 すとんと落ちすぎている肩。大きくはないけれどそれでも確かに丸みを帯びた胸と厚みのある下半身。曲線で形作られている体。それはつまり、私が女であるということ。

 体の形だけではない。体の内で生じる変化も私が女であるということを突き付けてくる。月に一度やってくる生理だが、最近、体に不具合が生じている。これまでそんなことは全くなかったのに、排卵日になると私の体は胃の中にあったものすべてを吐き出し、また、一切の飲み物や食べ物も受け付けなくなった。

生理の直前になると、体が火照り頭が痛くなる。これもまた、これまでにはなかったことだし、これらの変化と合わせ生理の周期も不安定になった。

 体という入れ物を、自分の手で選ぶことができたらどれだけ良いだろうか。体調の面ではもちろん、女である私という人間がどのように捉えられているのかということにおいても。

 ある人に「女性の若さなんてあっという間なのだから今のうちに遊んでおきなよ」と言われたことがある。ここでの「女性の若さ」というのはもちろん、身体的な面でのということだ。若さという言葉と身体は切っても切り離せない。

この言葉を発した人物は若いということに女性の価値を見出しているわけだが、それはつまり「女性の価値は身体にある」とも言えるのではないか。容姿と言い換えることもできるだろう。このような出来事は社会に出たら日常茶飯事なのだろうか。考えただけで虫唾が走る。

 話が少しそれてしまったが、上記の体験を含め女性の体を持っているとなぜか「若さ」でジャッジされることが多いように感じる。ミスコンや最近では女性アイドルグループもそうなのではないかと思う。

日本の代表的な女性アイドルグループである坂道グループが歌番組に出演しているのをよく見るが、若い女の子たちが「可愛さ」という枠内をはみ出すことなくパフォーマンスしているという印象を受ける。もちろん彼女たちの魅力はそれだけではないのだろうが。卒業という制度にも引っかかるところがある。彼女たちはなぜ卒業していくのか。自分の進むべき道を見つけたという理由もあるのだろう。けれどそこには「もう若くはないからここにはいられない」という側面も見え隠れする。(その点ジャニーズには卒業という制度がない。)

女性を見るときに、若さや可愛らしさに重点が置かれる点においてミスコンも女性アイドルグループも大差ないのではないか。両者がやっていることの根本は同じように感じる。

 女性の価値は誰の視点を通して形成されてきたのか。女性は誰に見つめられ続けてきたのか。若さや可愛らしさに付いて回る体はただの入れ物にすぎない。

 

 

 

マチルダ

髪の毛の癖が強い。

朝起きるといつも、四方八方好き勝手な方向にぴょんと寝癖が付いている。寝癖が付いている上に、さらにうねりも凄まじいことになっている。髪の毛を水で濡らしてドライヤーをしてからブロッキングして、横、後ろ、前髪とヘアアイロンで丁寧に伸ばしていく。直すのにどれだけ手間がかかることか。

毎朝毎朝こんなことはもうやっていられないと思い、1年ぶりに縮毛をかけた。カットもしてもらった。真っ直ぐでツルツルで、顎のラインにぴたっと揃った髪の毛。頭が軽い。もさっとしていない…!この嬉しさと言ったらそれはもう、すごい。

新調したボブヘアと、これまた新しく購入したグレーのカラコンを合わせてみる。映画レオンの中に出てくるマチルダになった気分だ。(レオン観たことないけど)ノリノリで銃を構えるポーズを鏡の前でしてみる。悪くない。

 

 

チルダはそのまま映画館へ向かった。レオンの物語の中へ戻るために?いいえ、彼女は物語の中に戻る気はない。現実の世界で強く生きていくことを決めた。映画はそんな彼女の束の間の楽しみなのだ。

 

 

 

発見

最近、地元が工場地帯であることを発見した。

今まであまり意識してこなかったのだが、地元周辺をよく散歩するようになって、そのことに気がついた。

川沿いから少しそれたところに一歩足を踏み入れると、そこには暗闇の中にカーンカーンという音と煌々と光を放つ製鉄所がある。さらにその少し先には、昆布や煮豆で有名な食品加工会社の工場がある。

私が知らない地元の姿。20年ここで過ごしてきたというのに、はてはて…。

それだけではない。ある出版社の支部やコンクリート製造(?)工場もある。その昔はカップ麺で有名な食品会社の工場や鉛筆会社の工事もあったのだとか。

ますます、はてはてとなってしまう。そんなにも多くの工場に囲まれて私は今まで過ごしてきたのか。

いつだか川崎の工場地帯にバイトに行ったことがある。バイトを終え夜外に出ると、目の前には工場たちが放つ無数の眩い光の連なりがあり、瞬時に心を奪われた。工場のある街、いいなあと思ったものである。

それがなんと、私、工場のある街に住んでいるんだよ。もちろん、川崎には到底敵わないけれど。だけどそう思うだけで気持ちが浮き立つ。

今日も今日とて夕方散歩に出かける。行き先はもちろん、暗闇の中光を放つあの場所だ。

 

 

 

YOUNOME

湯呑

ゆのみ

ユノミ

you know me

you no me

YOUNOME

 

芸名が欲しいと思った。

このまま役者をやっていく時のために、普段とは違う別の名前が欲しいと思った。

けれどもう私が役者として舞台に立つことはこの先ないだろう。100%そうなのかと言われれば、どうだろうと首を傾げる自分もいるが、恐らく95.5%ぐらいの確率でないだろう。

なので、"湯呑"という名前はこのブログのタイトルに譲ることにする。湯呑、ゆのみ、ユノミ、転じてyou know meそしてさらに転じてyou no me、YOUNOME。

捉え方によっては意味がありそうなタイトルだが、湯呑という語感が好きなのであってさして意味はない。

YOUNOME、あなたは私じゃない。

まあまあいい感じのような気もするけれど。