ケーキを焼く

 雨が降っていて出かけるにも出かけられないので、ケーキを焼くことにした。

しかし気が付いたら時計は3時を回っており、雨もすっかりやんでいた。おやつの時間が過ぎてしまい、ケーキを焼くかどうか一瞬迷ったが、体は甘いものを求めていたので決行することにした。いつでも甘いものに対する欲望には忠実でいたい。

 チェット・ベイカーの“Chet Baker Sings”を流しながら、まずは黙々とケーキの型に合わせてオーブンシートを切ったり繋げたりする。型の底を鉛筆でぐるりと写し取ったオーブンシートと、側面の幅に合わせて切ったオーブンシートを皴にならないように注意しながら型にはめていく。チェット・ベイカーの甘い歌声が、甘いものに対する欲望をさらに掻き立てる。彼の歌声は、軽い口当たりの生クリームのようだ。

でも今日作るのは、生クリームをふんだんに使ったショートケーキではない。ビターチョコレートがたくさん入ったガトーショコラだ。

 ビターチョコレートとバターを一緒に湯せんで溶かす。あっという間に溶けていく。卵白を泡立てる。これでもかというほど泡立てる。しっかりと泡立てることが大切らしい。それから溶かしたチョコレートとメレンゲと、あとは泡立てた卵黄をサクッと混ぜる。メレンゲの泡をつぶさないように、チョコレートと生地がしっかり混ざるように。混ざったらあとは型に流し込んでオーブンで焼くだけだ。ここまでくればもう一安心。

 レシピ本を参考に時間をかけてお菓子を作るのは楽しい。この一年でお菓子作りの楽しさに目ざめた気がする。

 ふとこの一年のことを振り返ってみる。色々あったようで結局のところ何もなかったように思う。失ったもののことやこの先のことばかりを考えてしまうせいで、“今”に対する意識が鈍くなってしまう。そんなことの繰り返しだった。お菓子作りは、そんな自分の意識を今に繋ぎ止めるための行為なのかもしれない。

 しだいに部屋にケーキの焼けるいい香りが漂い始める。あと少しだ。この瞬間がたまらない。

 焼き上がったケーキを1時間ほど冷ましてから、粉砂糖を振りかけていく。雪みたいで綺麗。そういえば今年は雪らしい雪が降ることがないまま春を迎えようとしている。

 さあ、そうこうしているうちにガトーショコラが完成した。ナイフを入れると表面がほろっと崩れ、ぎっしりと詰まった中身があらわれる。これはもうおいしいに違いない。紅茶でも淹れて優雅にいただくとしよう。