軸はどこにある

  サボテンのしまさんの住処である小さな植木鉢に土を足した。昨年の春にしまさんが台の上から転落し、そのはずみで土がばら撒かれしまさんの根っこの部分が露になってなってしまったのを、今の今まで放置してきてしまった。本当に申し訳ないことをしてしまった。何度も「ごめんね」と言いながら土を足し水をやった。本当は砂漠がもともとの住処であるサボテンに夜に水をやるのは良くないのだけれど。

 命あるものと生活を共にするのは難しい。

 小学生の頃に金魚を飼っていたのだが、それも最初は「私が世話をする!」と意気込んで餌をやったりしていたものの、最終的には面倒を見ることが億劫になってしまい、餌も毎日ではなく気が向いたときにだけやるようになっていった。当然、金魚は日に日に弱っていき、ある朝水槽の中で腹を上にしぷかぷかと浮いていた。金魚よ、永遠に私を呪うがいい。

 命あるものの範囲をもう少し広くしてみると、かなり強引な繋げ方になるが、そこには人も含まれる。人と関係を築いていくこともまた難しい。

 少しでも嫌なことがあると、相手と繋がっていたSNSを全てブロックするなど、関係性を白紙に戻したくなる癖がある。ネット上ではリセットできたとしても、起こってしまった事実そのものは取り消せるわけではないのに。

 中学生の頃からTwitterを利用してきたが、利用し始めた時から今まで、本当にたくさんアカウントを作っては消してきた。なので8年ほどTwitterを利用しているが、その間に繋がり関係が今も続いている人たちは本当にわずかである。

Twitterで繋がった相手との間に起こったちょっとしたことが嫌になり(今思えば本当にくだらないことだった)アカウントをどうにかしたこともあったが、私が勝手に繋がった人たちのことを僻み、いてもたっていられない状況に陥りアカウントを削除することが大半だった。

 「みんな人生すごく謳歌しているのに、どうして私の人生はこんなにも味気ないの?」くだらない。自分の人生を他人の人生と比較してどうする。と、過去の自分に堂々と胸を張って言える自分でありたかったが、結局今も昔とちっとも変っていない。Twitter大好きだけど、しばしばしんどくなることもまた事実。

 自分の人生とその中に存在する幸せは自分だけのもののはずなのに、いつだって他者の人生と自分の人生とを比較して苦しくなる。比較する必要などどこにもないのに、TwitterなりSNSをやっていると、無意識のうちに比較してしまっている。それはつまり、自分に対する自信のなさの表われでもあるのだけど。

 自分の人生、大手を振って歩んでいけるようになりたいものである。