雨に誘われ

 雨に誘われ、トリエステの坂道のページをめくる。じっくりと時間をかけて読んだ一冊は体の中に溶け込み、感性の一部となる。

雨が激しくなった。ペッピーノが自分の傘をトーニにさしかけると、彼は、いいよ、いいよ、というように頭をふって、手にもったカーネーションの束を台のうえに投げ出し、こちらがあっと思う間もなく、いちもくさんに近くの建物をめがけて走り出した。さよならともいわずに、両手で背広の衿もとをしっかりにぎって。夫といっしょに街を歩いたのも、トーニを見かけたのも、あれが最後だった。

須賀敦子「雨の中を走る男たち」『トリエステの坂道』新潮社

 一体この後トーニはどこへ行ってしまったのだろうか。トーニ自身や彼の家族のこと、そして須賀敦子と彼の夫のことはここに書かれていることしか知らないのに、なぜだか一抹の寂しさを覚える。

この話だけではない。トリエステの坂道に収められているどの話を読んでいても、常に寂しさを感じた。それはもしかしたら、彼女自身の寂しさだったのかもしれない。日本から遠く離れたイタリアに渡り、そこで伴侶となる人物と出会い家族になったが、伴侶やその家族と根っこの部分から分かり合えたわけではない。そこには育ってきた環境の違い、文化の違いといった大きな壁があった。

 むろん、彼女がトリエステの坂道の中でそのことを語っていたわけではない。ただ、彼女の一歩引いたところからイタリアでの出来事を綴った文章からは、そう思わずにはいられないのだ。